2007年04月29日

東国原知事の「東京都民傲慢」説

宮崎県知事が、東京都民を馬鹿にした。

慎太郎都知事怒った 東知事の「傲慢」発言を一蹴

 東京都の石原慎太郎知事(74)が27日、宮崎県の東国原(ひがしこくばる)英夫知事(49)のホームページ(HP)上での「東京の傲慢(ごうまん)は復活した」との発言に対し、「田舎もんが東京のことを偉そうに言わん方がいい」と言い放った。「傲慢」発言については、東国原知事が複数のメディアで「傲慢なのは石原知事ではなく、保守的でありたいと願う都民」などと説明。この弁明に、石原知事は不快感を露骨に示し「言うことがあるなら、オレの目の前に来て言えばいい」と“直接対決”を突きつけた。

 「目の前で言え、オレの前で言ってみろ、向こうにそう言っときゃいいよ」石原知事は、東国原知事の名前が出ると、質問を遮って、吐き捨てるように語った。

 東国原知事は都知事選開票翌日の9日夜、HP上の日記で「東京は創造(変化)をいったん拒否した。東京の傲慢は復活した。これで暫(しばら)く、東京は変わらない」と持論を展開。“石原都政批判”とも受け止められ、石原知事は23日の会見で「何をもって傲慢というのか、もう少し詳しく聞かせてもらいたい」と語っていた。

 これに対し、東国原知事は複数のメディアで「傲慢」は石原知事個人ではなく、「変革」を求めず「保守」でありたいと願う都民を指していると説明。9日の日記にも、東京について「『夢』と『可能性』を信じるために保守であり続けなければならない街」「『改革』に気付きたくない都市」と論じている。

 しかし石原知事は、東国原知事の“弁明”を「つじつまが合わない。日本語になってないな。もう1度、勉強してメッセージを出した方がいい」と真っ向から否定。「都民が保守的でありたい? そりゃいいものを残すのが『保守』であり、悪いものを直すのが『改革』でしょ。両方やっているじゃないですか」と説明した後、ついにキレた。「どういう人か知らんけどさ。あまり田舎もんが東京のことを偉そうに言わん方がいい」

 最後に「東国原知事に言いたいことは?」と問われると、ひときわ語気を強めて「ないねー」。さらに「舌足らずじゃなしに、言うことがあるならオレの目の前に来て言え。面と向かって。別にそこでケンカするわけじゃないけど」と“直接対決”を要求した。

 一方で、人気知事同士の場外バトルは本意ではないようで、「また、そんなことであおんなさんなよ」と少々うんざりした様子でもあった。

 ◆釈明「数字が違うかも」

 石原知事は、当選後の会見などで阪神大震災発生時の兵庫県知事の対応を「首長の判断が遅かったから2000人余計な人が死んだ」と批判したことについて、「ちょっと数字が違うかもしれない。(知事選の選対本部長だった)佐々淳行さんの受け売りだった」と釈明した。

 その上で「崩れた現場で人の気配があっても、重機がないまま人がむざむざ死んだ。だから法改正で自衛隊の判断で出動できるようになった」などと話した。

 石原知事の発言に対しては、発生時の兵庫県知事だった貝原俊民氏が「判断の遅れではない」と反論する手記を公表している。

(4月28日、スポーツ報知)


おそらく東国原知事は、石原都知事の政治生命が“今期限り”であることに油断したのだろう。

都知事選中には都内の石原事務所を訪れたていた知事が、石原氏が3選を果たした後になってから“石原批判”をするとは、こちらのほうがよほど傲慢なのではないか。

そして今回、特徴的なのは、東国原知事が「都知事ではなく、都民を傲慢だと言った」と公言していることである。
首長同士の争いではなく、宮崎県知事と東京都民の争いだ。東国原知事もずいぶんと思い切ったことをやったものである。

民意の否定をする前に、自分自身がどうやって県知事になれたかを考えて欲しいものである。
宮崎県民は優秀で、東京都民は馬鹿だとでも言うつもりだろうか。もしそういう考え方なら、今回の発言はよく理解できる。

ここ最近の東国原知事を見ると、記者クラブによる記者会見の削減を訴えたりと、とても政治家とは思えない発言が目立つ。
おそらく知事自身、自身が政治家であるという意識が薄いのではないか。
知事という公職にある者、県のセールスマンだと自称して満足しているようであっては困るのである。
たしかに県のPRも重要だろうが、そればかりをしている知事であるならば必要ない。
言葉を使うことのできる首長でなければ、それは政治家ではなく、政治屋である。

“素人”“庶民目線”感覚で首長にまで上り詰めた東国原知事だが、首長になった今、せめて“政治家”としての自覚を持って欲しい。
前々回のブログで、木村太郎氏の言葉を紹介したが、庶民の目線であることと庶民であることとは違う。
知事は、庶民ではない。町内会長ではないのだ。政治家なのである。
もうタレント知事はいい。
以上が、“傲慢”な東京都民からの一言である。
ラベル:東国原
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2007年04月22日

“銃規制”論議をする前にすべきこと

銃があるから、アメリカは危険な国なのだろうか。

NASAでも男立てこもり ジョンソン宇宙センター 人質射殺後に自殺

 【ロサンゼルス=松尾理也】米テキサス州ヒューストンにある米航空宇宙局(NASA)ジョンソン宇宙センターに20日午後1時40分(日本時間21日午前3時40分)ごろ、銃を持った男が侵入し、発砲した上で、人質2人をとって立てこもった。男はその後、警察が建物を包囲する中、頭部を撃って自殺。現場から人質1人が射殺体で見つかった。

 AP通信などによると、立てこもりが起きた建物は、44号棟と呼ばれる通信機器などの研究施設。男は人質2人をとり、同棟2階にバリケードを築いて3時間以上にわたり立てこもったが、その後自らの頭を撃って自殺。現場では男性の人質1人が胸部を撃たれ死亡していた。

 死亡したのはNASA職員のデービッド・ビバリーさん。警察責任者は「人質となった後、早い段階で射殺されていたとみられる」と発表した。

 もう1人の人質の女性は契約社員で、テープで椅子(いす)に縛り付けられていたが脱出し、軽傷を負ったものの無事。

 自殺した男は、ウィリアム・フィリップス容疑者(60)で、カリフォルニア州パサデナに本社を置く技術者・研究者派遣会社「ジェイコブス・エンジニアリング」の派遣社員。CNNテレビは、同容疑者とビバリーさんとの間でトラブルがあったもようだと伝えた。センター敷地内では武器の携帯は禁止されているが、同容疑者は拳銃を所持していた。同センターは、スペースシャトルや国際宇宙ステーション(ISS)の管制と宇宙飛行士の訓練を行う施設で、事件当時、日本人宇宙飛行士の星出彰彦さんが訓練中だった。

 事件を受け、現場付近の中学校が生徒の帰宅を禁じるなど、同センター一帯は緊迫した雰囲気に包まれた。

 厳重な警備体制が敷かれているはずの宇宙センターで起きた事件は、バージニア工科大の銃乱射事件で高まっている銃規制論議にも影響を与えそうだ。

(4月21日、産経新聞)


ご存知の通り、先週は「銃」を巡るニュースが国内外で多かった。

国内では、伊藤一長長崎市長が銃撃され死亡したほか、東京・町田市では銃を持った男が立てこもりを続けた。

アメリカでは、バージニア工科大学の銃乱射事件に加えて、ご紹介したNASAでの事件である。

一説では、日本とアメリカの銃を使った事件が発生する比率は、1:200だという。
とはいえ、単純なデータに惑わされてはならない。日本では銃の保持が禁じられているのだから、当たり前だ。
最近問われているのは、アメリカは、銃を持つことが合法だから危険なのだろうかということだ。
つまり、銃規制は必要なのかどうか。

アメリカでは、全米ライフル協会が共和党を支援している関係で、銃規制論議が現れては、消えていった。
ある米ラジオ番組のプロデューサーは、「『銃規制』をテーマに番組を進行すると、必ず保守層から反発の意見が来る。だから、『銃規制』は番組内で取り上げない」といっていた。
自由の国で起きる、「言論の自由」の自粛活動。

銃規制を求める論議が必要だという“識者”の意見が目立つが、ここで私は、多少違った見方をしたい。
私の考えでは、銃そのものが危険なのではなく、銃を扱う人間が危険なのだと思う。
もちろん、銃は人を殺すことができる。罪のない大学生数十人を殺すことも出来れば、正当防衛としてDV夫を殺すこともできる。

ただし、認識が必要なのは、ほぼすべての銃を保持するアメリカ人は、「自己防衛」のために銃を所持しているということだ。
「殺人」「傷害」という目的のために銃を所持する人間は、一般市民の世界では、まったくといっていいほど存在していないといっていいだろう。

今回のバージニア工科大学での事件では、大学の教授によればだが、チョ・スンフィ容疑者はうつ病の症状があり、精神的に病んでいたという。カウンセリングに向かうことも提案したそうだ。
そういった人間が、たやすく銃を買えてしまうことに問題があるわけだが、私は、今論議されるべきは、銃規制についてではなく、アメリカ国内の大学生などのメンタルヘルスケアをどのようにして行うか、といったことについてだと思う。

過剰なストレスを生みやすい社会状況は、日本もアメリカも大差ないだろう。
精神病的な症状が現れたりうつ症状が現れることは、よくあることだ。
日本国内で、7人に1人は生涯に一度はうつ病になる、という話もある。
精神病は珍らしいことではない。もっといえば、極めてよくある、普通なことだ。
現代社会においてストレスを激減させることは無理なのだから、いかにして、ストレスを乗り越えるかといった話にならないといけない。
重度の精神病患者は別として、チョ容疑者のような精神病を抱え持つ人間でも、長い視野に渡って大学に通うことができるような、まさに学生のためのメンタルヘルスケアが求められている。

銃規制を論議する前に、喫緊の課題としてまず必要なのは、銃をあやまった方向に使わないようにするための学生へのメンタルヘルスケアだろう。
この事件を持って、「アメリカが危険な国」だという話を持ち出すのは理解しがたい。
かつて世界一安全とまで言われたどこぞの国でも、外国から来た英会話講師が殺害された。十分危険である。

アメリカが危険でないとは言わない。しかし、アメリカだけが危険であるわけではない。

ところで、今朝の『サンデーモーニング』(TBS)では、銃規制の話題に絡めて、マイケル・ムーア監督の『ボウリング・フォー・コロンバイン』を取り上げていた。
この映画は、ノンフィクションのドキュメンタリーを装った完全なるフィクション映画であり、娯楽映画の風上にも置けない代物だ。
合成映像を恣意的に編集したり、因果関係を無視したり、時間の経過を無視したりと、『発掘!あるある大辞典U』(関西テレビ)と実に類似している。
本国アメリカでは馬鹿にされる対象と堕落したマイケル・ムーアを、いまさら非難する気はさらさらないが、この映画を取り上げることは厚顔無恥でしかない。

なお、マイケル・ムーア作品の問題点については、『アホでマヌケなマイケル・ムーア』(白夜書房)が詳しく、読みやすい。おすすめだ。
ラベル:銃規制
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2007年04月13日

“中国次第”の日中関係

3日間で、氷は溶けたか。

<温家宝首相>「氷を解かす旅」が成果を収めたと総括

 中国首脳として6年半ぶりに日本を訪れていた温家宝首相は13日、3日間の日程を終え、大阪空港から帰国した。離日前に京都で記者会見した温首相は「(訪日は)成功だった」と述べ、日中間の「氷を解かす旅」が成果を収めたと総括。中国側は今年後半の安倍晋三首相の再訪中を実現させ、日中関係の土台固めを目指す。


いつも思われるのは、日中関係は中国次第であるということだ。

今回の温首相来日では、昨年10月の安倍首相の訪中に続いて日中首脳会談が継続され、「戦略的互恵関係」の具体策が確認された。
閣僚級による「日中ハイレベル経済対話」の開始、環境・省エネルギー分野における協力の合意など、今回の温首相来日の成果はあったといえる。

ただ、東シナ海のガス田問題や歴史認識問題などにおいて、具体的な進展や成果の事実はなく、個人的には、中国の首相が日本にやってきて笑顔を見せれば、日中の関係はたちまち改善されるものなのかと思った。

温首相は、ジョギングをしたり野球をしたり農作業をしたりと“庶民派”ぶりをアピールしたが、これはどちらかというと、中国国内向けに「日本で積極的に活動する温首相」といった平民宰相ぶりを示した感がある。

隣国と仲良くすることは、誰が考えても大事なことだ。
ただ、仲良くするにあたっては、冷静に「自分」を見つめなくてはならない。

「政治家は本音を言わない。政治家の言葉にはすべて裏がある。我々は、『政治家ことば』を解読せねばならない」。木村太郎叔父様の言葉です。
ラベル:温家宝 安倍晋三
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2007年04月05日

死者は、20年待ってもミイラになるだけ

3日、福岡県大牟田市で白骨化したり、ミイラ化したりしている5人の遺体が見つかった。
身元が分かり、なぜ、白骨・ミイラ化していたかも分かり、今現在、事件に関する報道は極めて落ち着いたものとなっている。

「拝めば生き返る」=母の影響?「二女が」と長男ら−民家5遺体事件・福岡

 福岡県大牟田市明治町の永江茂夫さん宅でミイラ化するなどした5遺体が見つかった事件で、無職の長男(69)らが県警大牟田署の調べに対し、「父が死んだ時、二女に『家族が拝めば生き返る』と押し切られ、遺体を家に置いたままにした」などと説明していることが4日、分かった。
 長男らは「二女は神の道を信じる母の影響を強く受けていた」と話しているといい、同署は5遺体は永江さん夫妻らとみて身元の確認を急ぐとともに、死因を調べている。
 同署によると、長男らは「20年ぐらい前に父が死に、10年ほど後、1、2年ごとに母や長女ら4人が死んだ」「直近では約5年前に二男が死亡した」と説明。いずれも老衰や病死だったとしている。
 また、長男は「妹が両親の年金を受け取っていた」とも説明。一部の親族も受け取りを認めているという。
 調べでは、3遺体が見つかった玄関近くの6畳の和室には神棚があり、女性1遺体があった4畳半の和室にも、天井から神棚のようなものがつるされ、上に高さ約5センチの鉛製の大黒様の像が置かれていたという。
(4日、時事通信)


いくら憲法で信教の自由が保障されているとはいえ、いや、だからこそ、一言言わせていただきたい。
死者は生き返らない、ということだ。一度働きを停止した心臓は、二度と動き出すことはない。
69歳という、平均寿命に近い人間なのにそのことが分からないものだろうか。遺体放置5年目ぐらいで気が付きそうなものだ。
20年待っても、死者は甦らない。そこに新たに生まれるのは、白骨化した遺体、ミイラ化した遺体に過ぎない。

スピリチュアル・ブームで、「死んでも生き返る」ことに疑問を抱かない人が増えてきたという(香山リカ『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』)。
民放テレビのゴールデンタイムでは、かつてのオウム心理教がやりそうなカルト広報活動を、タレントが、アイドルが展開している。
前世が分かったところで、この一生は今この時にしか生きられないのである。今世に重点を置く余裕のない人間が、他者に教えられた前世から何を学べるというのだろうか。
また、運命も、何か絶対的なるものに支配されているわけなどないと思う。格好良くいえば、運命は、自分自身で切り拓いていくものだ。
今から起こす行動で、どうにでもなる。どうにでも変わる。「運命のまま」何も行動を起こさなければ、そのことには一生気付かないだろう。
スピリチュアルは、私たちにあきらめをくれる。「確定した運命に沿った行いをしなければならない」と説く。
死者が生き返るというのであれば、どうぞ、一般大衆の目の前で死者を甦らしてくださいませ。

そして、このニュースで明らかになったのは、地域コミュニティの薄さだ。
近隣には「平成に入ってから、夫婦を見なかった」と話している主婦もいるという。
「変な宗教をしているから」と、関わらないようにしてきたのかもしれない。
しかし、20年間、近隣の人間が存在しないことに気が付かないとは。関心を払わないとは。
こんな日本社会はおかしい、とは思うが、いざ自分を、身の回りを見てみると、自らも隣人が誰かを把握したりだとか、ご近所付き合いだとかを出来ていないことに気付く。
「人の振り見て」とはよく言うものだが、見ることは出来ても、わが振りを直すことは難しい。
引越ししたらご近所に挨拶に行く。朝や夕にすれ違ったら挨拶をする。そんなことしか思い浮かばない。
「これ、旅行に行った際のお土産です」などといった訪問は、今の私には、出来そうもない。
それは、おそらく「何なの、この人?」と思われるのが怖いからだ。地域コミュニティの問題は、一人ひとりの人間の“対人関係恐怖”に由来することが改めて分かる。
ただ、分かっただけではダメだ。せめて、笑顔で挨拶したりといった地道なことから、近隣住民との人間関係を築くことが大事なのだろう。

なんだか話が変な方向に広がりすぎてしまった。
タミフルの話題にも少し触れたい。
タミフルと異常行動の関連性について、厚生労働省は4日、2001年2月から今年先月までに、128人が「異常行動」を起こしていたことを公表した。
異常行動を起こした人は、タミフル使用者の11.9%、非タミフル使用者の10.6%で、その差は1.3%に過ぎない。もちろん、この1.3%に大きな差がある可能性もある。
現段階では、タミフルと異常行動に因果関係があるとも、ないともいえない、ということではないだろうか。
また、タミフルを服用しないことで肺炎にかかったり、死亡したりするケースが存在することも把握しておかねばならないだろう。
タミフルを使うリスクと、使わないリスク。患者は、この2つのリスクを判断せねばならないといえる。
posted by Author at 09:16| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月03日

東国原知事「タミフル」発言に問題なし

私には、何が問題なのか分からない。

「タミフルで異常行動」=その後発言を撤回、謝罪−東国原宮崎知事

 宮崎県の東国原英夫知事が2日、インフルエンザ薬タミフルを自身が入院治療中などに服用したことを理由に、「きょうは異常行動に走るかもしれない」と宣言し、その後「因果関係はまだ科学的に実証されていない」として発言を撤回、謝罪する一幕があった。
 東国原知事は同日午前の新規採用職員辞令交付式などで、「インフルエンザにかかって5日間ぐらいタミフルを飲み放題、飲みましたから、ちょっときょうは異常行動、異常言動に走るかもしれない」などと発言した。
 しかし、午後の記者会見では一転して発言を撤回。「申し訳ありませんでした」と謝罪しつつ、「シニカルというか、ブラック的にユーモアを交えて、社会風刺をしたつもり」とも釈明した。 
(4月2日、時事通信)


東国原知事のこの発言が、拍手喝さいを浴びるほどに面白いジョークであったかは別として、少なくとも、私は、この発言に問題はないと思う。

そもそも、なぜこの発言が「問題」となったのか。それは、メディアが「問題」にしたからである。
ここまでの東国原知事の持ち上げぶりを見るたび、私は、いつ、メディアで“東国原バッシング”が始まることかと思っていた。
今回の発言で、メディアが「問題」と報じるのは、知事を持ち上げる姿勢から、バッシングの姿勢に方向転換する“いいきっかけ”を掴んだに過ぎないといえるだろう。

今朝の情報番組では、この「問題」を取り上げていたが、そこでは、コメンテーター陣が、東国原知事を自らよりも下等に見ていたことが露呈された。
つまり、東国原知事はテレビメディアの見つけた“ひとつのおもちゃ”に過ぎず、“第2の堀江”“第2のタマちゃん”に過ぎない。いや、“第2”どころではないだろう。

この程度のかわいいジョークも通じないのであれば、首長や議員のジョーク使用禁止を、法律で明確に禁じるべきだ。
この程度のジョークさえ認められないというのであれば、我々日本人は、未来永劫に渡ってジョークの本来の価値を享受することなど出来るはずはなく、単にジョークは、コミュニケーションを煩わしくさせるものにすぎなくなるだろう。
日本人は、よくジョークが通じない民族だといわれることは、このブログでも少し前に触れた。
狂歌や落語、狂言といった笑いの文化、ジョークの文化が日本にはある。決して、日本人は笑いの通じない民族ではないはずだ。むしろ、高度な笑いの技術を持った民族だといえる。
しかし、“現代の日本人”が、ジョークを低く見る傾向にあることだけは間違いないだろう。
私は、ジョークが理解できるか、出来ないかが、人間性のすべてを表すに違いないと考えている。
IQもEQも結構だが、人間の“質”は、ジョーク認識能力によるのではないだろうか。

ちなみに、私はタミフルと異常行動の因果関係には、かなり慎重な見方をとっている。
タミフルを飲んでも異常行動を起こさない10代は多数存在するわけだし、タミフルを服用していないインフルエンザ患者(10代の少年)が異常行動を起こしたというニュースも、先日報じられた。
厚生労働省の対応が「遅かった」として騒ぐような方々もいるが、インフルエンザ治療をタミフルに依存している現状において、特定の層に限定するとはいえ、「原則使用禁止」を打ち出すなど、そう簡単に出来るものではない。
むしろ、私は、タミフルを「使う」リスクと「使わない」リスクを比較・検討するに当たって、厚生労働省は、よくもここまで早く決断できたものだと思うぐらいである。

そういった“タミフル弁護人”の私だが、東国原知事のジョークとは特に不快に感じない。
単に、「タミフルと異常行動に因果関係がると報道されている」という社会問題を揶揄しただけであるからである。タミフルを、タミフル販売業者を、タミフル使用患者を揶揄したわけではない。
そもそも、「タミフルを服用すると異常行動を起こす」と、散々煽ってきたのは、どこの誰だったろうか。
「知事の発言としていかがなものか」という人もいるが、東国原英夫に“非・既存の知事らしさ”を期待したのは、どこの誰だったろうか。

特別、東国原知事を擁護する気も、持ち上げる気もない。
しかし、この程度の発言を問題にする人たちには、もううんざりだ。
ラベル:東国原
posted by Author at 09:04| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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